ホーム・ページの更新やいかに

ホーム・ページの更新やいかに

昨日、手の空いた所員に3時間あまり付き添って貰って、やっとデスク・トップ表示と全ファイルの整理を行なった。自分だけだったら、1日かかっても出来ないだろう。デジカメ写真などは色々の物件や事情によって撮っているが、これまでその1本の内容は1ファイルだった。このためどこに何があるかもわからなくなり、使い物にならなかった。今度の整理ではそれの仕分けの指示もあるわけで、本人がつきっきりでなければ誰も仕分けできない。
浜松の大学に奉職中の6年間は、事務所の整理は所員に任せ切り。となると、このデジカメの整理でもわかるが、誰もどのように整理してよいかわからない。そこで、それぞれに勝手なタイトルをつけ(もちろん、ある程度の指示はしたのだが)、デスク・トップをつけたりして整理されていたわけだ。
更に、この事務所独自の難題があった。マルチな仕事と産業の隙間の問題が所長のこだわりであるために分野が広がり、事務所、大学、その他のいわば公職(団体理事長、委嘱委員など)、個人的なこと(原稿や交信記録など)というように、大枠でも別れてくる。もともとワードを始めた頃から、この区分をして来なかったために、蓄積されたファイルの上に経験的に上乗せさせて、どんどん分散してしまったのだ。これを中途採用の所員にやらせても、ますます混乱するばかりだった。


何でこんなことを言うのか。実は、ホーム・ページ(以下HP)の更新も出来ていないから、その言い訳になりそうな、経済的理由以外の理由を捜しているからだ。パソコンの扱い方そのものに倦んでいる世代がいるということだ。
何とかしたいと思っているが自分では出来ない(と思っている)ために、どうしてよいか分からない。どうしてもスタッフか外注の助けが必要になる。どこかから、今更、頭下げて若僧につけ上がらせるのか、という声さえ聞こえて来そうだ。
本当のところ、こんなことで難渋している60才以上の仲間は多いのではないか。このために団体のHPの管理やリニューアルにまで迷惑をかけることになってしまう。


そういうわけだから、HPに載せる作品についても変なこだわりはある。もう少しというところなのに満足な写真が出来ていないとか、実作そのものにまだ不満が残るとかという以外に、「こんなに取り扱いの面倒なもの、相手にしていていいのか」という蔑視の心理だ。
他に、僕のやってきた仕事は、デザインの関係性への着目であり、メディアの通俗的な目新しさ好みへの反発からの創作だから、ちょっと見えにくくなった。それと共にメディアとのサイクルが少しおかしくなっている。このことも作品を紹介するのはちょっと待てよ、という気持ちの証(あかし)になっていて、それがHPへの貼りつけを焦らせない理由にもなっている。


それから・・・言葉だ。「言葉遊び」に慣れてくると、まず言葉で表現しておこう、という意欲も出てくる。ところが言葉遊びに夢中になると、どこまで行っても言葉しか出てこない。視覚の表現はあくまで、線、面と寸法が造り出す形、色、質(感)。
これをいじっているとそのまま線や形、色の推敲に繋がって行く。しかし、今度は感覚的にしか伝達できなくなる。言葉の方が抽象概念や、関係性をよく表現出来、また伝達しやすいのだ。大学も、いわば公職も、言葉しか求めてこなかったし、言葉での伝達しか理解しなかった。
このことからわかるが、このところ僕は「言葉遊び」に浸かり過ぎた。このために作品で苦しむという、逃げられない環境に身を置くことからは少なからず離れていた。このために、そしてそこに生ずる言葉と実像との落差の大きさを承知してしまったゆえに、紹介できる作品が少ない、ということもあるのだろう。


HPの更新が遅れている理由をこれだけ捜してきた。
こんなつまらない言い訳、よく言うね。どうも、どうもご苦労さん。早く言葉の檻から解放されて下さい。