美的感性的表現要素としての肉体の位置               

       

「イタリアーな日本人」という本がある。
ひょんなきっかけで見つけたのだが、装丁がちょっと、見た目に貧弱に見え、買うのはやめようかとも思ったのだが、結局買った。著者はマリーノ・マリン。リビア生まれというから、どこかの国との混血かも知れない。原題は“Il lato italiano dei giapponesi“といい、直訳は「日本人のイタリア人的側面」というもの。翻訳はイタリア外務省の助成を受けているというから、いわば政府公認文書と言える。(三修社刊)
ところが、読みはじめたら止められなくなった。
あまたのイタリアと日本に関する本が出ているが、そのなかでもこの本は特筆に価するのではないか。その理由は、ちょっと数えただけで5つある。


1・イタリア人がイタリア人に向かって書いた本の翻訳である。だから、自国の問題にも、明快かつ遠慮なく切り込んでいる。日本人がイタリアを想って、こうじゃないかというのとは訳が違う。
2・その観点から、では日本人はどうか、と踏み込んでいる。この日本および日本人への知識が半端ではない。何度も来ているが、日本に住んでいるのではないらしい。が、その知識と体験は居住者並である。
3・知識ある分野が広く、政治、軍事、経済、宗教、文化、社会、風俗、何にでも関っており、また時代も古今を横断し、洞察も鋭い。ずいぶんマルチな人だ。
4・イタリア人らしいヒネリの効いた言い回しは小気味良い。シニカルにも聞こえる場合もあるが、基本的にはヒューマンなもの言いだ。
5・ジャーナリストだけあって、両国の政財界の人脈、人間関係に詳しいと見た。だから裏面史的な知識にも長じている。


特に1については、一般の日本の読者にはイタリア国内事情に触れ過ぎとの印象もあるだろうが、僕には他人事でない知識を植えつけて貰った。「ハハーン、やっぱりそうか」という訳である。そういう点を考えると、特筆に価するという日本人も、そんなに居る訳ではないのかも知れないが。


前置きが長くなったが、今日の本題は、昨日のジュリアーノ・ヴァンジで触れた、発現ベースとしての人間の体について、本書からの引用からはじめたい。


「・・・イタリアと日本が大きく考えを異にする美的要素が一つある。人間の肉体である。・・・イタリアでは、肉体はなんといっても傑作であり、芸術表現の中心とすべき対象である。・・・一方、日本において人間がその中心に置かれることは稀であり、・・・自然や風景が支配的である。・・・日本神話において神は人間を創造したのではなく生んだことになっているため、人間は神の恩寵を自然と分かち合うものと見なされている・・・この共有の精神は物質よりも心、肉体よりも精神を重視するものと解釈されている。
三島由紀夫は『若きサムライのために』の中に、・・・『・・・日本では、仏教が現世を否定し、肉体を否定したところから、肉体自身が肉体として評価されないのみならず、肉体が肉体を超えたあるもののあらわれとして評価されることは決してなかった。端的にいえば肉体崇拝がなかったのである。・・・』・・・と記している」


訳者の佐藤恵利奈さんの努力によって、本書全体によく訳されているが、ここにある肉体観の差は興味をそそられる。
ちょっと言葉いじりになるが、人体と肉体では言葉の使用目的も意味そのものも大きく違うように思う。人体は科学用語で、肉体は感性用語と見える。どちらも日本語に無かった造語ではないかと疑いたいほどしっくりしない。で、デザイナーが肉体というのが妙に聞こえるということも起りうる。


デザイナーは、現実の肉体を相手としているが、一般にはそれを人体と置き変えて言おうとしている。
われわれは、そこからモノと空間の距離を計り、機能と結びつけることを仕事としている。その意味で肉体を否定することなど出来る立場ではなく、崇拝はともかく、人体を造形上の一単位としてみているので、あきらかに肉体否定派ではない。
ただ、マリンや三島によって区別されているように、デザイナーでさえも、日本では肉体そのものはもとより、人体にしても、そこへの執着より、その表層(表情、肌合い、質感、衣装、身だしなみ、ほのめきなど)の方に関心を示しているとは言えるだろう。原研哉氏と日本デザインセンターの「HAPTIC」なども、この路線上にあると言えよう。


この後、このマリンの論法が深められているわけではない。三島由紀夫まで引用して自説を裏付けようとしているのにもびっくりするが、大筋では、この辺は素直に聞いておく方がよいのかも知れない。


こう考えて見ると、われわれが人体を寸法ユニットとして見るのは当たり前どころか、より明確に人体を肉体として把握し、美の造形要素にとり入れたとしても当たり前、むしろ日本人の習性が邪魔をして肉体を正視させないことに気付くべきだ、ということにもなりはしないか。
僕の場合、育ちの過程と在伊経験が、より肉体への関心を大きくさせていると言えるのかも知れないが、どうもそのような方向に流れて行く。


それはそれとしてよいとしても、ヴァンジの彫刻などを見ると、表情も重要な美の造形要素であることが判る。ともかくも芸術であるより、デザイン・コンセプトであろうとして造形要素を探す時、表情の扱いは未定の問題になる。しかし、寸法単位としての人形を造って空間に封じ込んだとして、それだけで面白いのだろうか。やはり表情や願望からのデフォルメを取り入れることによって、より日本人の心性も汲み取る事になるのではないか。


プレゼンテーションとしては、人体オンリーで考えている訳ではない。メディア情報に取り囲まれ、そこで自己を見失いつつある近現代人の位置を示す仕掛けとし、そこに肉体を持ち込みたいと願っている。