想いがわかり、能力を認めてくれる建て主にめぐり逢いたい

【住いの話】



住宅を建てる人の心理に合わせて





本当の意味での建て主(以下臨機応変に「様」つけ)に出会う時代になってきたのかもしれない、という予感はあります。


それでもある意味では、ある種の建て主様には、今でも本当には建築することの意味がわかって頂いているわけではないようにも思われます。


誤解無いように付言しますが、これは建て主様を無知の衆として扱おうとするからではありません。あまりに複雑になった設計仕様や手続きを逆手に取って、これを「お客様の希望を優先する」という大義名分を活かして問題解決をパターン化し、コスト(安くする)、納期(早く竣工する)、プレゼンテーション(解りやすく絵解きをする)という建て主との「経済メリットから」編集し直し、結局は建て主を(言い方は良くないかも知れませんが)、いわば納得済みで供給者都合に合わせて終わる、だけでないようにと、言おうとしているのです。
言い方を変えると、接客上手・コスト安またはエコノミー・短工期・形式上の契約・保証とは別のものとして(あるいは敢えて優先順位からすると、それらを下位のものとしてでも)、いい家、建築というのは存在するということです。
もちろん、材料の適切さ、施工技術の好レベル度、構造・設備の適切さは出来たものに付随するわけですから、本質的なものに属します。その理解と読み込みが、「本質的な意味の設計(デザイン)」なのです。


一般の方々は、われわれ日本人全体がアメリカから教わった経済万能(主義)と、この大不況で最優先されている接客サービス至上(主義)を、むしろ当然のことと受け取っていられるでしょうから、この「接客上手、コスト、工期、形式上の契約・保証」が揃っていれば、満足される場合も多いことでしょう。
でも、しつこいようですが、そのことは「本質的な意味のを設計内容(デザイン)」を意味しないのです。
経済人にもわかる言い方をすれば、建物はストック(保存蓄積による価値財)であって、フロー(流通消費の価値財)ではありません。完成した時からこそが勝負であり、工事契約の履行で終わりではないのです。そのためには、住み手が使い込んでゆく経過を視野にいれないわけにはいきませんが、それは契約にはないことなのです。

面倒なのは、では接客上手、コスト、工期、形式上の契約・保証などを軽視するのかといえばまったくそういうことではない、ということです。
それが、僭越を承知で冒頭に述べた、建て主様に差し上げたい喚起事項になるわけです。


住宅の場合、何千万かの自己資金を注ぎ込むわけですから、建て主が建築家と施工業者に任せればいいものが出来ると期待するのは当然で、私たちにとってのその責任は重いはずですが、であればこそ、建て主様にあっても、時代の趨勢をじっくり見て、判断して頂きたいと願うのです。

現実には施工業者も建築家(あるいは建築士)もピンまではなくても、キリまでばらつきがあるはずです。しかも、工務店に限らず、設計事務所でも、内装材から始めたところ、設備から始めたところというように、出生からの体質もあるはずで、それを建て主が見抜くのはなかなか大変です。


でも、そんなことを言うことが出来るだけ、日本はいい国だというべきです。
それは、ひとつには国民全体がまだまだまじめで、人の意見を聴き、よく調べ、約束を守るからであり、もう一つはこれも国として、経済の対極として技術を置いてきたために、モノつくりの技術はまだ信頼出来、ある意味では不器用なほど技術主義偏重だからです。1ミリの狂いも許さなかったり、表面の汚れだけで総取り換えしたりする国は、世界的にはむしろ異常なくらいなのです。それゆえ、下手をすると技術万能に足をすくわれることになるなのです。だからこそ、本質的な意味のデザインが大切になる、という逆説をはらんでいるわけです。
またこのことは、だから施工の方はまだまだ安心できる。それなりの締め付けも行われている。安心のレベルは高い。任せておける、ということにもなるのです。
ということは、そのことからゼネコンから工務店に至るまでの欠点は、むしろ本質的な意味の設計力だということにもなるのです。


しかし以上の説明をするまでもなく、コスト、構造、設備、動線計画、そして(狭い意味の)デザイン、これらが融合して、バランスの取れたハイセンスな住宅を頼みたいという人は、つまり本質を見据えた建て主さんは、個人主義と文化の深まりにつれ、次第に増えているのではないかとの予感は、やはりあるのです。



狭い意味のデザインと言えば、日本人は、一般にセンスが良く、特に最近、とみに女性のファッション・センスが良くなってきたと感じられます。自分の個性や欠点を承知して、それを活かすなり、うまく隠すなり出来るようになってきていますし、メイク・アップ・ポイントを押さえています。さらには、必ず全身鏡で全体のプロポーションから部分を判断しているようですし、素材や色合わせ、着合わせにも気遣いが感じられます。これらはすべて、完成状態から見た設計力(の内のデザイン力)の要点と同じです。



設計者から見れば、どうしたらこのような感性と、それへの理解のある建て主とめぐり合うことが出来るのだろうか、という問題になります。
内容から見れば、本当に建て主の気持ちになって設計することや、またその能力があるということは、どうやって伝えられるのだろうという疑問になります。


正直のところ今では、私にはそれらさえも結局は、建て主と設計者の「ある種の出会いの相性」ではないかという気がしてなりません。建て主が「コストや工期のことばかり」や、あるいは「希望を如何に早くプレゼンしてくれるか」などを優先して考え、まずそれから評価するようであれば、私の場合落ち込んでしまいます。
ことわっておく必要があるのでしょうが、顧客に対して無差別な営業行為での受注作戦は、一度やってみた結果、疲れるばかりで神経が尖り、とても設計業務に係るような雰囲気になりませんでした。

こういうと、「いい気なものだ」という業界や建て主様の雰囲気も感じられるのですが、結局、個人の才能で勝負している以上、経済効率に合っているはずがなく、隠してもそれはにじみ出てしまい、お互いに気まずくなるばかりなのが現実です。
ですから、いいものを造るためにコストが揺れ動き、工期が至近に定まらなくても、気持ちよく対応して頂ける建て主様にめぐり合うしか、いい仕事は出来ないということになってしまいます。


とりあえずの「壁」は住宅の場合、ハウス・メーカーの提案・見積りと比較されることでしょう。
うまい宣伝と営業で十分な粗利を含むコスト管理された住宅と比較されることは、設計の経験と思いが為す仕事とは、ある意味で相当違ったもののはずですが、このことはわかってもらえていない場合が多いと感じています。

一番簡単でわかりやすいのは、設計者の意図が十分入っって建てた家を見てもらうことでしょうが、建て主の都合もあって、完成後の住居の公開が難しい場合も少なくないのが現実です。

そこで、ホーム・ページを見たり、ヴィジュアルに雑誌紹介などされた住宅を見て、気に入ったと、ファースト・コンタクトを取る建て主様が出てきます。一方、気の利いたホーム・ページのリニューアルは専門スタッフや良く解った外注業者とのつきあいがないと、ことのほか大変です(ちなみに私はここ2年あまり、まったく思うように行っていません。住宅設計料を高め勝手に設定、公表して放置してしまっていますし、このブログでさえ大変なのに、深みのあるHPの日常的な更新が如何に大変かと思ってしまうのです)。
以上の情報提供は、建て主様と出会う出発点ですが、もし、紹介できる最近の住宅設計に恵まれない場合はどうでしょうか。また雑誌の場合、いつも取り上げてくれるわけでもないですし、更に重要なことは、写真と現実の差が見えないバーチャルな情報では、施工や納まりの優劣がわかるわけでもありませんし、現実の空間のピッタリ感や連続感も判りません。その結果逆に、写真的にかっこいい部分だけを見せるということも可能になってしまうのです。


いずれにしても住まいは、論理でもなければ写真でもありません。そこに住む人の生活と心理を、寸法と素材によって自然環境から切り取って仕切ってゆく作業の結果なのです。その意味では、ホーム・ページやブログをいくら整備し顧客情報に合わせても、それはコンタクトの入口でしかないのは明らかでしょう。

そこで私たちは、建築家としての自分たちの思いを、建て主用に一冊の冊子にまとめようと思い立ちました。そこには建て主の話も加えて個性あふれる内容にしたいと考えています。

(後日に続く)