@藤田嗣治と高田博厚、二人のこと。

【日記】【情報・論】


藤田嗣治高田博厚、二人のことを語ろう。
二人にとって、パリは何だったのだろう?


21日に書きかけたことの追記。


ミラノに住んだ経験を延長してゆくと、パリの在住生活がどんなものか、なんとなくわかるものだ。

丁度、今日の午後からの陰ってゆく日差しのような雰囲気はパリの空気に近いようだ。2時ころまでは快晴で、窓を開けていられるほどの暖かさ。道路に紅葉した落ち葉が舞い、空気は湿度がなく、とても澄んでいる。

こういう陽の中では気持ちが和み、一瞬は、もうカネなんか無くてもいいや、という気にもさせてくれる。


何のために生きているのか。パリの空気は孤独から人に何か仕掛けさせる力をもっている。


藤田のことを書きたかったには、その奔放な「秘部」の話を聞いたからだ。

グループの画家を集め、アトリエにべニア板を立て、中央に穴をあけ、そこからペニスを出して、見物する女性たちにそのヌシを当てさせたとか、自分の巨根に自ら整形手術をしたとか、それをモディリアーニやスーチンに見せていたとか、夜のパーティに、自分は、描いた刺青にふんどし一丁で、全裸にした金髪の妻を籠にいれ背負って現れたとか、「フジタの怪物性は世界の都・花のパリの人たちをも手玉に取ったのだ」(新潮45、10月号。「レオナール・フジタ」島地勝彦)

その実感が続くので、さらに引用すると…

シェークスピアも言っているように、若い男のペニスは、何処でも張り切る『良心なき正直者』なのである。…フランス語が通じないうちはロマンチックで質実剛健な明治男児であったが…、わかり始めると同時に、フジタの巨根が大いなる活躍の舞台を求めて動き出す。
パリで言葉が通じたら、男にとってパリジェンヌは生け簀で魚を釣るみたいなものだ。彼女らは世界でいちばん、男心をくすぐる動物である。官能的肉欲を知ったフジタは、まさに『知る悲しみ』を知ってしまった。フジタは狂喜乱舞したことだろう。そんなフジタに鎮まれ!と忠告するのは、荒れ狂う暴風雨に向かって鎮まれというが如く酷なことであった」…




高田博厚は、父が司法官で引退後は福井で弁護士をしていた裕福な家庭に生まれ、母が熱心なプロテスタント信者だったこともあり、16歳で牧師代理を務めるようになった。

東京美術学校(現東京芸大)を受けて落ち、高村光太郎を訪ねて自画像を見せたら褒められ、岸田劉生の所に行けと言われ会ったが、劉生の実力に恐れ入り、逃げ出した。イタリア語の勉強をし、それが翻訳などを通じて飯のタネになったようだ。
喰いつめてしまい、だからパリに行くというのも乱暴な話だが、そんな実情の中だったらしい。
その時、「四人目の子供、和子は生まれたばかりであった」(同誌。「我が鐘愛の奇人伝第5回―高田博厚福田和也
逃げ出したとしか言いようがないが、それでもパリに行けば「本業」が待っているという気持ちだったのだろう。
2年という約束で家族は置いて行ったのだが6年たっても帰らず、博厚はパリで子供まで作ってしまった。


そんなパリ生活がどんなものだったのかは記述がない。ただ、ヨーロッパ情勢が不穏になった後は,そのおかげで特派員という職を得て安定したようだ。語学の才能もあったようだし「世渡りは異常なほど達者だった」そうだ。
そんな男が日本に帰ってきた。
定年で職を失なったこと、4人目ともなる伴侶とも破局が堪えたのだろう。
「いつも『フランスの土になります』と手紙に書いてきた父(博厚)は、一度たりとも親らしい事をしたことがない娘(和子)に頼ろうというのだ」


こんないい加減な男だが、最後には九州産業大学の学長にまでなっている。
「博多のバーで博厚は、『キンタマおいしゃん』と呼ばれていた」という。
その言葉が意味するように、当たり構わず、ペニスを見せたり、パリジェンヌとのセックスの話をしていたのだろうと思われる。この後には学内のアトリエから女子学生たちが逃げ出してくる話も出てくる。


高田博厚は彫刻家として忘れられない。またパリのことを何たら、くんたらと書いていたと思う。彫刻家としての表現行為には全霊をもって責任を取った。後の事は、楽が出来ればどうでもよかったのだ、としか思えない。
それはフジタも同じだろう。