DJ@イタリア 食と生の余韻。 社会全体が闇

【情報・論】


先々週と先週のイタリア講義内容を、レジュメをベースに2回続けて再録します。




先々週:「イタリアと日本」何が見える? 第7講 旨いものは練り上げる/食と生の余韻    20091124



「旨いものは練り上げる」というイメージ。それにおいしいものを食べられれば極上の幸せという実生活。


イタリアに限らずフランス辺りも、旨いものは、食材をやたら捏ね繰り回して作るというイメージがある。
まず、ワインが搾ってから何年寝かせたで始まり、チーズはまさしく牛や羊の乳を捏ね繰り回して作る原型を提供している。
パスタも小麦粉から練り上げるのだし、ハムの類もそうだ。添え物の野菜サラダと肉料理になってやっと、原型近いところで食べるのかと思いきや、煮込み野菜の「ズッパ・ディ・ヴェルデューラ」や、同じく、いんげん豆の「ズッパ・ディ・ファジョーリ」、「リボリータ」、サイコロ状に切った牛肉を一日中とろ火で煮込む、「ボッコンチーニ」などが出てくる。スパゲッティのトマト・ソースも、イタリアン・トマトをぐずぐずに煮たものをベースとする。
これらのしつこい食べ物のおかげで、食事時間は長引き、消化時間も長引く。この時間帯に緊張した会話や思考は難しい。そこに、おおらかでいいかげんな(?)イタリア人気質が食い込む余地がありそう。


これらは何を意味するかと言えば、やはり食の安全確保から煮たり焼いたりということに至ったのだろうとは想像がつく。生(なま)で食べるというのは非常に危険なことなのだ。ほんの例外がフランスを中心とした「牡蠣」の生食いだが、そんなに古い歴史のものではないように感ずる。それとも、ペストの流行期などを除いて、長い間にそれで当たったり、死んだりする人がほとんどいなかったという実績があったのだろうか。
これは日本でも同じことと思われるが、魚を捏ね繰り回す方(かまぼこやはんぺん)、塩付が多いなどの特徴とは別に、ここまで動物系に関わってこなかったために、乳製品、ハム・ソーセージ・サラミなどの食のベースの多様さには圧倒される。
例えば、今夜携行した「イタリアン・チーズ」の本―200種の伝統タイプ―というのをみるとその実情の一端がわかる。これは日本の地域独特の仕込み酒と同じで、ワインとともに、イタリアの各地域が如何に、独特な郷土色を出しているかがわかる。


ワイン(ヴィーノ)
これこそ、イタリアを知ろうとするなら、「ワインに聞け」とも言えそうな食生活全体の根源に関わるようだ。D.O.C(統制原産地呼称。1980年末で196銘柄)や、食事前のうるさいワインの試飲、最近の「ワイナリーへの投資」の例まで伝える。


食と生の余韻
ワインで始まり、アンティパスト、プリモ、セコンド、ドルチェ、カッフェ・コン・グラッパで終わる、ゆったりした食事は、生活を優先するイタリア人の心髄。夜のバールで歌い出す弁護士、会社の社員食堂では昼からワインが出る、2月には夏休みの話題で持ち切り、最近まで昼休みには家に帰る習慣が…





先週:「イタリアと日本」何が見える? 第8講  警察とナポリターノ              20091201


イタリアの本質は「難解」である。特に、治安と国税財務は日本とは雲泥の差、と言うより、根本的な国民の納得の仕方の違いがあるため、一般日本人には理解もつかない状態と思った方がいい。しかし、そういう国であるからこそ、日本人が知らずに、学ぶべきところもあることも知る必要がある。特に、最後に述べる「生活が簡単になり経済状態が豊かになるのであれば」という、彼ら共有の意識には万感の重みがある。


イタリアが難解であるベースに、不法移民を含む国家無視の個人的身勝手さと、国も国民の心情を軽視している風があるからである。ここで生きるには「狡猾さ」が当たり前になるのだ。
「警察」は治安面において、その低能ぶりを発揮し、「ナポリターノ」は、南部出身者の多い警察官に代表されて、南部イタリア人のメンタリティを代弁する言葉である。
今回の資料も「破産しない国イタリア」を書かれた内田洋子氏(著・平凡社新書)からの引用が多い。知れば知るほど、氏の情報量の多さに感心する。更に関心あれば一読をお勧めする。


不法移民跋扈の国
海岸線の警備は甘いから、長靴の足裏やかかとの方からの不法侵入は絶えないようだ。
南部は、「南北問題」に見るように、一般にアンチ北部のため、この地域の不法侵入に対して、甘くなるとも言える。海路運搬は非情な手口で行われる。不法渡航者は領海近くで海に投げ込まれ、海岸に辿り着けなかったり、最初から捕まるように乗せた廃船を放棄されたりする。
主な脱出国はアフリカ諸国で、アフリカの空洞化が続いているようだ。


Extra Comunitari(エキストラ・コムニターリ=共同体の外の者たち。以下ECOとする)と総称される者は、政情不安や経済破綻した母国で生きれず、どんな過酷な制約の下でもまだイタリアのほうがいいと信じて、不法入国してくる者たちのこと。アメリカ人や日本人は暗に除かれている。
1997年データでは、約107万人の国籍外国人がイタリアに居住。そのうちの86%!がECO。毎年、50万人程度の増加。あまりの悲惨さに同情もある。国が「やっていける」と試算するのはたったの3万.8千人/年程度という。
1998年に「不法行為の追認」といわれる特別寛大な法的措置が取られ、ヨーロッパ中の不法入国者がイタリアに押し掛けた経緯がある。



必然的な狡猾さ
所得のごまかし(無申告や過少申告)は毎年、15兆円にもなり、ヨーロッパで最大。脱税者数は他国の10倍にはなろうという。
保険目的の嘘の自動車事故報告は毎年20万件。支払は420億円とか。「もともと自動車保険には、<偽りの事故>へのリスク・チャージが含まれているから」=人件費をかけて精査するが馬鹿らしい=それもまた嘘になる、から。
偽りの「身体不自由者」も50万人位。医師とグルになってニセ診断書を提出する。政府から<障害者年金>や<助成金>を受け取るためである。(「盲目」の診断で、運転免許証も受け取っていた者がパレルモで40人も発覚したことも)
申告されていない家賃収入は750億円。国営放送RAIに受信料を払わない国民は300万人。公営のバス、地下鉄、市電に切符を買わずに乗る者の損害は102億円。闇商品の売り上げ総額は3000億円。(出版時1999年までのリラ・ベース・データの略算から)



慣れた狡猾さは国への不信と表裏一体―社会全体が闇(内田洋子氏)
「国民のほぼ全員が、大なり小なりの<狡>をし続けると、しばらくすれば習慣化して、<悪いこと>という感覚はなくなり、非難する風潮もなくなる。少々の<狡猾さ>で、生活が簡単になり経済状態が豊かになるのであれば、悪い話ではないはずだ、という感覚になるのである。」
そういう背景には例えば、「購入した一軒目の住宅には課税しないとし、多くの人がローンを組んで家を購入したところで、突然、一軒目にも課税を決めて、国民の逆鱗に触れた政府=国の存在」があるのだ。