BH@心洗われるトスカーナの夕陽

【大きな構想1】     RV:20150520



心洗われるトスカーナの夕陽


見渡すかぎりのの丘陵。雲一つない初夏の快晴の夕暮れ。そこに夕闇が迫る。
もの音と言えば、時々遠くで吠え、冷涼な空気を震わす犬の鳴き声や、下の方からわずかに聞こえる車の音位。
ここはイタリア、トスカーナ地方の南のはずれ、モンテプルチャーノのまち外れ。
どういうわけかこの日没に、どうしても心が震える。
今、太陽は遙かな丘の上からまさに消え入ろうとしている。そのせいなのだろうか。
今日も、今終わる。
日没はこの世の終わりのような気にもさせる。
暗くなった足元と天空とは反対に、レンガの壁に映える残照だけが世界の終わりにしがみついているかのようだ。


そこに居てみてこそ感じるのだが、どうしてトスカーナのこの夕陽は人生の全体を飲み込んでしまうかのような気にさせるのか。
ハワイを含む南太平洋や、インド洋の島々で望むゴールデン・サンセットとどこが違うのか、という意見もあるに違いない。でも実体験としてはどこか違うのだ。
それでも、たかが日没には違いない。
確かに僕は異国の旅人だが、それは日本ではあまり見かけない山岳構造のせいもあるのではないか。
日本の山々は頂きが高く、谷が深い。夕陽はすぐ山影に隠れる。しかも山の頂きになどまちはない。夕陽に映えている時間は短い。そうしてみると、自然の悠久の中で、ちっぽけな自分の存在なんか考える余裕もないまま日没になりそうだ。
ここは、大天空の真っただ中にあり、神々に近いという気にもさせてくれる。


世界的視野を持つために、それを地形のせいにする気はない。
でも実感として、ここは日本では日常にかまけてあまり意識しない人生丸ごとの存在感を教え、金銭では換えられない何かを与えてくれる。


僕らは欧米の文物に翻弄されて生きてきた。
開国からたった百五十年程度でしかないこのちっぽけな国が、精一杯がんばりぬいて西欧に追いついてきたのがその本当の姿だろう。だから政治も行政もある種の偏向を免れなかった。
いまやっと、その偏向の姿の全体が見えるような位置と時代に生きるようになったと言えよう。
だからトスカーナの丘陵に立って思うことが日本の現実であっても、それは新しい考察のきっかけを与えてくれただけで、だからイタリアがいいとか日本が駄目だとかという比較の問題ではない。


それで思うのが、景観が人間に与える心理効果、目標の見えなくなった日本の姿、自我に目覚めはしたが相変わらず「ゆとり」の価値を実感できない国民性であり、この地球にも絶対終りがあることの諦観からどう生きるかという問題である。そしてその考え方の底辺を成すのが、「絵画と科学」という設問に関わる問題である。