須賀敦子の世界

【情報】(翌日追記あり●)


遥かなる須賀敦子の世界


言葉には二通りの機能がある。伝達機能とその上の感覚表現機能だ。
前者で語る、産業人、経済人、政治家、行政マンに後者はいらない。感覚的に語られたらたまったものではない。もっとも最近流行りの「粛々と」というのは、漢詩から取られ日本語化した感覚表現だと思うし、誰かこれにかみつく評論家がいるのではと思ったが見当たらない。どうなっているの。


須賀敦子の文体世界はこの反対にある。つまり感覚表現機能の世界だ。
文意上の論理は一貫しているが、ここでいう伝達機能は、言葉の機能を二分化した時は問題としない。


と言っても、僕が須賀敦子を評論出来るわけではない。
ほとんど彼女の本をちゃんと読んでいないことを白状する。
それも当然。これほど人気のある彼女の文体が、はっきり言うとどうも好きになれないからだ。
食わず嫌いもあろう。読書家ではないこともある。結局、文才が無いのだ。


まず、あの静謐、平穏だが、いくらか暗いトーンと粘り強さにどうもついて行けない。生命のトレモロも感ずるが、見たくないものを見るような気持ちになると言おうか…。


でもずっと気になっている作家であるのは間違いない。何せ読み始めれば、昨日、一昨日の自分の身の回りを語られているようで、まったく他人事ではなくなるからだ。
●とすると、好きになれないというのはちょっと誤解で、本当はこのことと深く関係しているのかも知れない。…どうしてかは正確に言えないけれど、そこから抜け出したい、という気持ちをくじけさせるのだ。
僕はイタリアに憧れている人間ではない。そこには媚薬があるが、そのエッセンスを少しばかり仕掛けとして日本人に注入したいということだ…と、自分に言い聞かせたいから、なのかもしれない。
 

BS 朝日5チャンネルで須賀敦子の世界をやっていた。映像で彼女の足跡をめぐる企画だが、とてもカメラワークが良くて、見始めると見あきない。でもそれは、そこにほとんど彼女の「言葉」が出てこないからだといえるのかも知れない。


ペルージアの外国人学校でイタリア語を学んでいた彼女は、アッシジ近辺も歩き回ったようだ。そこにはノルチャやカステルッチオなど、最近テレビで紹介された僕も知らないようなまち(といっても村)がある。
これらの中世のまちは、確か唯一、海に面していないウンブリア州にあって、聖フランチェスコの修業と関係の深いところが多いようだ。
古い、古いイタリアへの思いに捉われたい人は、須賀敦子の廻ったこの丘陵の地に足を運ぶといいだろう。