B@絵画と科学

【大きな構想2】



絵画と科学


ちょっと妙な取り合わせだが、敢えて拾ってみた。
絵画とは書いてみるが、そこに想起される思いは何でもよい。というのは、「絵画」が本来持つイメージから大きく逸脱する人はそんなにいないと思われるからだ。
ここでいう絵画は印象派の絵でもいいし、光琳宗達の絵でもよい。あるいは小学校で習う「お絵描き」の絵でもよい。
それでもぎくしゃくするのは、「絵画」という漢字がよくないのかも知れない。
最近、デッサンを改めて考えているが、モノや風景(対象)の形体やあり様を紙という平面に移し替えて、最もそれらしく見せることが絵を描くという行為の内で、一番「科学的な操作」に近いのではないか、と思い始めた。そのうちでも、風景やモノでも植物や動物では対象の描写が少し狂っていても、ごまかしが効くからあまり意味がなく、有る程度幾何学的な人工物の描写がいい。そこから形態と比例の正確な把握、光量のグレードと分配などを「分析的な判断力で」学ぶ事が出来る。
ここで初めて、人は絵にも「科学的な思考らしきものがあるのだ」と気づく。これを少年期にたたきこんでおかないと、絵は特殊能力者の技と思いこんで、絵から離れていってしまうのではないか。
重要なことは、こうして「科学的、分析的に」検討されながら、それでもこれらが、言葉または数字ではないということ。それでもって、何らかの(例えば美の)伝達行為を成し得ているということだ。それは多くの場合、個人的主観による価値判断の問題とされるが、そうでも無さそうだという判断力を人に宿すことでもある。歴史を見ても現実を見ても、「美しい」ということに、何らかの客観性がありそうなことはすでに知られているだろう。そういう考え方、スタンド・ポイントに日本人の全体がなってほしいのだ。


一方、科学は言葉と数字で示される。ここでは予測と言えども、自然現象の分析と実験による証明からの発展の上に組み立てられた考え方を超えられない。ただし、第三者への伝達能力は論理的であり、正確に主旨に近づけられる。


両者には何の繋がりもない、ように見える。
この設定をしたのは、ある種の企画行為分野がこの両者をうまくまとめようと腐心してきたからだ。
例えば、建築やプロダクトデザインの分野がそれだ。


繰り返しとなるが、絵画の世界は一般的な理解では、非常に特殊な分野と思われ、実際、何を表現するかは作家にとって大問題なのだが、見えるものを写し取るという基本的な行為は、人間にとって必要な技術として太古より捉えられてきた。
一方科学も、それ自体は科学者の世界になってしまうが、分析的な精神を育て、プラグマティックな行動指針を作り検証もするという行為は、パスカルデカルトニュートンの時代から、西欧を中心に育ってきたものだ。
日本でも関考和、伊能忠敬らにその精神を見ることができよう。


しかしこれまで、これらの世界はそれぞれが独立独歩を進め、両者の距離は画然と開いてしまった。多分ここに現代の不幸のある部分があるのだろう。パスカルは繊細の感情と幾何学の精神とを区別したが、この問題はそこまでたどり着く。


例えば家を建てるとなると、少なからぬ日本の男はそれを女房に丸投げしてしまう。会社の売り上げの方が重要と思うからだ。


本記事に関係のある他日のブログ:
今年分では、
1月5日 「デザインは科学であって、科学でない」
1月9日 「理系バカと文系バカに加えてデザインバカがある?」

を参照。