「虚無」の時代について

【大きな構想】 (建物を建てようとされている方々向きの内容ではありません)


小さい日本人



7月1日に書いたこと
(「4億年後、5億年後には地球は消滅する」)、
そこによく出てくる「虚無」とか「虚栄」とかは、現代用語になじまないかも知れない。
でも、僕の青春はこの言葉に振り回された。
特に大学を出て、サラリーマンになった6年あまり。


それは…これも今は流行らないが、三木清に心酔したからだった。しかもたった一冊の文庫本「人生論ノート」によって。


今思えば、戦時中、牢に入れられていた暗い時代と人生を生きた者の、呻きのような哲学の考察だったのかも知れない、とも思うけれど…。
現在の僕自身に懊惱(おうのう)が多すぎて、三木の気持ちや哲学を分析している心の余裕がない。もっと後年に(?)考えよう。


で、「虚無」の関連で何が言いたかったのかと言えば、
時代も我々もあせり過ぎている、ということだ。
となりに、現代も生きながらえるローマ文化のようなものがあれば、もっと、「焦ってもしょうがない」という気持にもなるのかも、と思ったりした。
この日々の拘束は、日本人をますます小さくしてゆくのではないか。