ぺリアン展とデザイン

(後から埋めていきます)


ぺリアン展から見えてくるもの


今日、突然、こんなことを思った。
これは一般的な話で、ぺリアンのことではないが。

デザイン(すること、したこと、あるいは作品となった商品のことだが)は駄目だ。やっぱり古くなる。
そこには恒久性は見えない。
このように、デザインはやはり二分化されてくるだろう。あえて判りやすく言えば、商品と作品だ。そして作品だってほとんど古くなってゆく。
ということで、「運動」なら、歴史の位置けに治まって古くならないのではないか、と…。


今、目黒区美術館でやっている「ぺリアンと日本」展では考えさせられることが多かった。
われわれが後になって、とても同業に近いと判ったぺリアンだが、彼女が戦後二度目に東京で過ごした時(1953〜55)が、ちょうど自分の中学時代だったという近時点的なことも関係ありそうだが、もっと他のことだ。
それは、フランス人デザイナーで建築家と自称するシャルロット・ぺリアンの思考形態について、ということかもしれない。


彼女は、1933年に来日したブルーノ・タウトが発見したような、感覚的な日本の美を問題ともしなかったように見える。もちろん、言葉に出なかったけれど、日本的な感性については、あ、うんの呼吸で吸収していたからだ、とも言えなくもない。
それでも、というところなのだが、もうちょっと言葉が欲しかった。それは彼女の自伝を読んだ上で感じていることだ。ついでに言えば、自伝で日本滞在について触れている部分は、頁数で全体の1/10程度だ。その頁の中でも感性的な発言は少ない。結果として、いかに日本人が彼女にコミットしているかという印象にならざるを得ない。
悪い意味ではないが、阪倉準三は最後まで彼女の身辺の面倒見役だったようだ。それにしては前川との付き合いの記述が少ない。彼女自身はコルビジュエに仕えたことは大きく扱っている。
言い忘れないうちにつけ加えておくが、彼女のモノとしての「作品」の主眼点は工業生産の合理化、新素材の活用という辺りに在ったようだ。それはあっけなく乗り越えられてしまうような技術認識にとどまている。その分、形態の美に踏み込んだ様子はない。一方、建築家なら評価する「生き生きとした空間」「使いやすい空間」への感性はかなり良いものを持っている。


こうしてみると、何か他の名称をつけるより、「近代合理主義デザイン運動家」としての彼女を見る方がはるかに実績評価出来るように思う。そういう見方からすると、近代デザインの錦の御旗だった「機械美としてのデザイン」を受け入れることによって、視点はモノにとどまり、現在でも解決出来ていない「人間とデザイン」(美しい形に惚れる、使いやすい空間という程度の次元でなく、何で人はモノを作るのか、という次元まで掘り下げることを言う)についての考察問題を残した時代の証人の一人のようにも思えるのだ。
このことは言いかえると、ぺリアンの問題ではなく、一人の人間ではデザインのオール・ラウンドな対応が難しい時代になったことを現わしているのかも知れない。東大で学生を使えた丹下や、結果として稀有なマネジメント能力を発揮し得た前川のような例はむしろ、例外として扱うべきなのかも知れない。
そういう観点を飲み込んだ上で彼女を見ると、組織やデザインにおける「感性としての人間」を考えなくても、楽しく、未来が明るく見えていた時代を体現したような女性だったように思えてならない。彼女の初来日は1941年だ。
この年の12月に日本は太平洋戦争に突入した。


ただ一つ、ぺリアンから教わるのは、具体的な商品の完成度など求めなくてもいいのだ、ということだ。行動して、そこに運動した足跡を残しておくこと、これはモノではないので(もちろん、物証としてモノがあるのは当然、許される)古くならない、そう思えるのだ。




別件備忘記録:
後日に記述:カレル・ファン・マンデル「愛の園」1602 について(エルミタージュ美術館展から)
レンブラントの自画像が1654年。