何のために寄付を募るのか

【論】



反省材料


JAGDA(日本グラフィックデザイン協会)理事長の○○○○が突然、怒鳴った。
「デザインは文化だ!」と。
それは2002年前後のデザイン8団体の集まりの席上だった。
司会役をして、デザインを経済として考えることを話していた僕は、内心、「○○さん、今、そんなこと言わないでよ。判っていることじゃない」と思ったが、反論しなかった。
そこには各団体の理事長、会長、同副、事務局長ら20人位が同席していて、経済産業省の役人も数人参加していた。「経産省の人がいる前で、そんな身内の争いみたいなことをする必要はないじゃない。それに経産は文化に無縁だ」とも思ったのだ。



今、思い返すと、当時から僕はデザインを文化と経済や技術と同列のものとして扱おうとしていた。それが昨今の「どっちつかずの位置に立つ」議論になっている。


ところで、話が少しずれるかも知れないが、「デザインに寄付を」という運動を考えてみたい、という去る1月25日の考えに対して、理事の一人が感想をくれた。
その意見が、まず、日本では宗教的なベースが違う点が、アメリカのようには行かないだろう、ということだった。特に、「この言い方では何のために寄付をお願いするのか、もう一つ判らないんじゃないかな。デザインが何を対象にしているかをはっきりさせていないことも関わるが」というものだったように思いだす。
ちょうど設計プロポーザル落選の愚痴も重なったためか、「それに、あんたの言い方はいつもちょっと愚痴っぽいんだよ。傷夷軍人が、『私は国のために戦ったのだからめぐんで下さい』と言っているみたいでは、集まりにくい」
いやもっともだ。



言われてみると、僕のどっちも立てる、どっちにもつかないという立場の表明では、自分のことを言っているだけで、寄付の目的が見えないと言われそうなのもよくわかる。
目的があって、「この指とまれ」となるわけだ。その目的とは、経済や技術でなく、デザインを「文化の軽視に対して」と、はっきりさせるべきだろうが、その先が難しいし見えない、と言うべきか。
でもともかくも目的となる理由について引き続き考えてみよう。