デザインは日本を変える鉱脈ではなかったのか

【論】

Was not design the key for resolve the problem of present and future of Japan?



―訳も分からずに大きなことを言う―


デザインは日本を変える鉱脈だと思ってきた。

鉱脈とは掘られていないので顕在しないが、そこには宝があるという意味だ。


このためにあらんことも勉強し、経験を深め、視野も広めてきた。ここにはモノや空間を創る実務と論理思考を深めることも含む。そこにはプロダクト・デザインにとどまらず、グラフィク、建築もやろうとする野心があった。実際、建築については相当深入りしてしまっている。これだけでも個人としてはパンクしそうだが、この個人の限界を越えて、事務所の運営、ビジネス社会の仕組みや利益の確保のようなことまでやってきた。さらに、そこに構造改革とネット社会まで来た。
確かこのことについて、将来的な予感も含め、「君は分野を広げ過ぎているよ」と注意して下さったのが、かって住友海上の社長だった徳増須磨夫さんだ。


今、デザインの更なる拡散によって、デザインがその名だけ取れば一職業分野の名称を越えて一般名詞化している実情を知れば、もう僕の手には負えなくなった。
あれもこれもうまくやろうとするにはあまりにも拡散した。またそれは「二兎を追う者は二兎を得ず」の拡散版で、結局、何もモノにならずの終わるということを意味するのかも知れない。
変革という視点からは、個人の資質では対応しきれないのは明らかになったが、職能集団の組織を見ていてもそれを感じる。


こうしてデザインは日本を変える鉱脈であることはなくなった、と言うべきなのか。それとも、ここまでやった個人や集団の努力は何らかの結実をもたらすことが出来るのか。それを受け入れる新しい社会の概念が出て来ているとでも言えるのだろうか。
いま、僕はその解答に窮している。