デジタル化や統制化が進む社会の到来

【論】


どんどん面倒くさい社会になってしまったことからの脱出


Our society has become complicated more and more. And so, we need new relationship with others and economical workstyle in a district area.


デジタル化社会が進めば進むほど、風のそよめき、潮の音、四季の香りといった外の世界が疎遠になるのではないだろうか。一日中パソコンを覗いて終わる日々が露骨な例だ。外の世界といっても、そこには肌に感ずるものを含め、結局は五感に触れてくるもののことを言うことになるだろう。そのうちでもディスプレイに現れる映像に向かう視覚などは一応別にしておかなければならないように思う。
一方、統制の利いた社会になるほど、家族や友人との交流の場、愛を育む場や自分の居場所といったものも、より求められるようになると考えられる。家を空け続けたサラリーマンの人生についての思いや反省が話題になることもこの辺の問題に繋がる。

このようなデジタル化や統制の利いた社会になればなるほど人は、今度は感覚的にくつろぎを感じる目のやり場、肌になじむ道具や体感を増してくれる商品、あるいは観光や地域イベント、あるいは恋愛などに大きな関心を抱くようになるわけだろう。
モノについて言えば、消費財を除いてモノが消滅することはないにしても、求められるものはより技術度が高くなり、ハイセンスのものになって行くわけだ。
このことは生活に必要なモノを生み出す、いわば「対象物」で生きてきた産業構造が、いわばシステム転換の節目に来たということを意味するだろう。



背景にはネット社会化、モノ過剰とエコ化の要求(エネルギー問題)、グローバル化などがあるのは明らかだ。
このようにしてデジタル化社会に生き残る体感社会の到来が予見されるのではないだろうか。


ちょうど百年前と言えば、パリを中心にしたアール・ヌーボーという「トレンド」が終り始め、アールデコが勃興してきた頃。アメリカではフォードのT型が走り回り、タイタニックが沈没(1912)した。機械時代の大きなうねりが出てきていた。それでもまだまだ、郷愁のように人とモノが密着していたのではないかと思える。この百年でモノは機械化し、大量生産、大量消費となり、エレクトロニクスが人知を超え始めたわけだが、実際にはそのスピードアップからすると、200年分位行き過ぎてしまったようにさえ思える。

最近の地域社会や、個人への視線はこういう時代の流れへの伏線となりつつあるようだ。
―鑑賞者が参加し対話することで生まれた文化は、文脈や背景が解されれば深い共感を呼ぶ(朝日新聞)―こういう言い方のうちに、地域、個人を中心したコミュニティの発展を呼び、二十世紀との決別を促しているという予感を秘めている。
(状況により加筆)